関係性がもたらすメディア選択
2004年07月07日 13:26 | com: 0 | tb: 0
現代社会には様々なメディアが登場しており、以前は限られた権力層に集中していたが、現在はインターネットの普及などによってパーソナルなものに近づきつつある。
今回は自分のメディア選択とコミュニケーション環境との関係について整理したいと思う。
まず自分の思いをメディアという媒体に載せて伝えたいときにどのような理由でメディアを選択しているのだろうか。
ここではオープン型(自ら情報を発信できる)のメディアについて述べることにし、クローズ型(マスメディアなど限られたものによる情報発信)のメディアは扱わないことにした。オープン型に関して、次に挙げる8つの項目が複雑に絡まって行動に繋がっていると考えた。
1、対象は誰か
2、対象と自分との関係
3、対象の生活習慣
4、伝えたいことの重要度
5、返答への期待度
6、伝わる速度
7、伝わる信頼度
8、金銭的な絡み
では、僕が利用している各メディアについての付き合い方を述べようと思う。
【e-mail】
ここではPCを介して送受信するメールのこととする。
e-mailを利用するとき、メーラーにはコミュニティで分けられたフォルダが多数存在することに気がつく。幾つにも階層化されたフォルダ構造を見ていると、いかに自分が複雑なコミュニティの中で生活しているのかが視覚的に分かる。また、一方的な配信ではあるがメールマガジンも登録してあり、事あるごとにフォルダを作成し整理する傾向が見られた。他の使用方法といえば個人宛での利用である。ただ、現段階でe-mailは情報を発信するよりは受信する頻度の方が高く、それは多数のMLに所属しているからと言える。またML向けの送信が多いことに気がついたのだが、e-mailは複数を相手にすることが多く、ケータイのようにピンポイントにコンタクトすることが少ない。
e-mailを選択する基準としては、内容の詰まった情報を伝えられること、時間帯を気にする必要がないこと、MLを利用すれば限られたコミュニティに対して情報を伝えられることが挙げられる。
【Instant Message】
ここではMSNメッセンジャーやICQなどのサービスのこととする。
僕はMSNメッセンジャーを主に使用している。サインインすると友人の誰がいるかを視覚的に判断でき、ステータス名での各人の主張や遊びを見ていると楽しい。特別な用事がないままに会話が始まってしまうことがあるが、僕はそういった関係を見直すべく最近はMSNメッセンジャーを起動しないように努めている。それは以前チャット会議に巻き込まれて煩わしい思いを抱いたからで、グループでの作業が円滑になる場合もあるが、今の段階で負の面が多いと判断したからだ。今までは自分のためではなく友人が話しかけてくる可能性があるとしてサインインしていたが、長年かかってやっと自ら利用しない権利を行使することができた。やはり経験上、MSNメッセンジャーで会議をするのは極力避けるべきという見解である。
Instant Messageを選択する基準としては、対象とほぼリアルタイムにやり取りが出来ること(PC前にいれば)、ファイル転送に信頼性があること(視覚的にダウンロードの割合が分かるため)が挙げられる。
【WEB日記】
WEB上で自身の思いを綴ったもので、基本的にコメントのつけられないものとする。
自分の日常生活を載せていくのだが、基本的に当たり障りのないものを書いていく。日常を記録すること、考え事をまとめること、承認欲が働くことなどが挙げられる。
【BBS】
WEB上に意見を公開し、コメントがつけられるようになっているものとする。
特定のテーマに沿ったBBSが設置されることもあるが、ほとんどが気楽な日常もの。匿名での投稿が許可されていることが多いためか、盛んに意見が交わされることもある。特定の人物間で盛り上がると別の人たちが参加しにくくなる傾向があり、WEB上で公開されているにも関わらずケータイメールのようなやり取りが繰り返される。blogと違うのは、誰もがスレッドを立てることが可能でテーマの設定が自由であるため、比較的参加しやすい雰囲気があることだ。個人のBBSには閉じられたコミュニティ向けのメッセージを、組織や団体のBBSには不特定多数へ向けたメッセージを送る傾向があるように思う。
BBSを選択する基準としては、MLの枠を超えた関係者を巻き込もうとする心理が働くこと、自分の興味分野で突っ込みを入れたいときが挙げられる。
【blog】
WEB上に思考を公開し、エントリーごとにコメントやトラックバックをつけることが出来るものとする。
特にトラックバック可能な部分が最近のメディアの中で革命的な機能として注目されている。blogは日記として利用されることが多いようだが、単なるWEB日記と違いトラックバックを送ることで他人のblogと思考を繋ぎ共有できる。つまり参照したblogとの関係性を視覚的に確認できることが新たなコミュニケーションを生み出しているのだ。これまでマスメディアに頼っていた情報を様々な角度から眺めるチャンスが増えたことは、メディアがパーソナル化している証拠といえる。
blogを選択する基準としては、自らの思考をblogとして集めることによって視覚化し整理できること、他人からのコメントやトラックバックを無意識のうちに期待していることが挙げられる。
【ケータイ通話】
ケータイで電話をかけることとする。
ケータイに電話をかけるとき、僕たちは電話口の向こう側から聞こえる声を想像している。ケータイに電話をかける行為は既に相手が特定されており、一般電話とは異なった意識が働いている。よって名前を名乗る必要もなく「もしもし、何か用?」といきなり先手を取ることもできる。また、「今お電話大丈夫でしょうか?」と相手を気遣う言葉も登場して、奇妙な状況が生まれている。(電話に出るのだから基本的には大丈夫なのだが、社会的に不都合な電車内などでの通話を予想しているため起こるのだろう)
ケータイ通話を選択する基準としては、要件を伝えるのが早いこと、言葉だけよりも気持ちを察することができること(息づかいや間の取り方など)が挙げられる。
【ケータイメール】
ケータイを介したメールのこととする。
他愛もない会話をしたり要件を伝えるときに使われるが、電話よりも気軽に扱うことができる。ケータイにもMLを利用することがあり、バイトの欠員補充のためのケータイMLでは急な用事などで交代してほしいときに効果を発揮するが、世間話が始まってしまうとその度に着信する面倒さにイライラすることもある。
ケータイメールを選択する基準としては、特別気をつかうこともなく要件を伝えることが可能なこと、ある程度素早い返事を期待できることが挙げられる。
以上のように例を出してみると、いくつものメディアを生活の中で使いわけていることが分かる。ここで重要なのは、自分は様々なシーンで最適なメディアを選択しているつもりだが相手はどのような気持ちで受け取るかは分からないという前提だろう。僕は要件を伝えるとき、自分の都合と同時に対象の都合も考えてメディアを選択する。対象は誰で、自分との関係はどのようなものか、対象の生活習慣などを先回りして予測することがマナーだと思っている。だから電話に出なかった場合、単に相手が気づいていないのではと考えるのと、電話に出られない状況であることを想定して、一応メールで要件を伝えることもある。
やはり自分と他者との関係性を抜きには語れないテーマであり、アプローチ方法も様々であるが、僕はメディアの特性こそあれ、それぞれに優劣はないと考えている。大切な要件はメールよりも電話をかけるべきという論があるが、価値観を作り出したのは社会であり絶対的なものでもないので従う必要はないだろう。ただし他者との関係性を無視することも出来ないため、個人のセンスが光るところであるとともに、上手く使い分けることができれば良好な関係を築くことができるといえる。
肯定的ユビキタス社会像
2004年06月29日 16:18 | com: 1 | tb: 0
「ユビキタス社会像」を捉えていく方向で。
人間はおっちょこちょいな生き物である。
未来のユビキタス社会は、全てのモノとモノが会話することによって人間が見逃したミスを安全に迅速に丁寧に対応してくれる補完作用を果たす。
それによって、のび太君のようなおっちょこちょいな人間は不自由なく生活することが出来、ドラえもんの存在価値は減ってしまうかもしれない。
植物人間のように寝たきりの人の生活にも事欠かない時代が来ると考える。
管理されたと言えば抑圧的な印象であるが、機能的に管理された社会と言えば肯定的である。
悲観的にならずに、近い未来を明るく過ごす思考を鍛えることがよいとされる社会が訪れるだろう。
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情報通信文化論:課題10 ユビキタスが描く社会像 or ユビキタスのためのアイディア
へのエントリー
ユビキタス~偏在から遍在へ
ユビキタスについての様々な意見が出てきたので、自分の考えと照らし合わせてみる。
一部の者に限られていた技術が一般の人々に徐々に広まっていく。
これはユビキタスにおいても同じ原理であると思う。
以前、研究会のキャッチコピーで遍在から遍在へというものがあり、今回貸借させてもらった。
ユビキタスコンピューティングという概念は、コンピュータを意識しない、もしくはコンピュータとして意識しないことを指すと考えている。
SFCでは無線LANが整備され、ほとんどの場所でネットワークに接続出来ることからユビキタスに近いと考えるかもしれないが、僕たちはコンピュータを利用している意識を持っていると思う。
よって今のSFCの環境はユビキタス環境とは言えない。
ユビキタス社会が訪れることによって人々のプライバシーは確実に侵されていくのだろうが、現在議論が進んでいるように未来の仕組みを上手く作っていかなければならない。
素直だと思う意見がありました。
アントニオ・ホドリゴ・馬場:携帯・・・とかでいいのかなより
コンピューターを意識せずに現実世界のいたるところで利用できる環境って
そんなコンピューターを使っているのに意識しないなんて無理だと思うんですよ。
マウスは常に持っているし、タイピングもやっているし。
それに「現実生活のいたるところで利用できるような環境」っていうのが理解できません。
~身近なものでいいんですかね。今友達に聞きました。
それでいうと携帯ですかね。
確かに、今僕たちが使っているコンピュータ(PC)は機械的な要素が強いものなのでユビキタスを想像し難いものだと思う。
今後はもっとオモチャ的な感覚でコンピュータを扱えるようになるといいのではないか。
ケータイはかなり生活に密着した存在になりつつある。
このメディアからユビキタスが近づいてくるのは間違いないと感じている。
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情報通信文化論:課題9 ユビキタスについて調べるへのエントリー
マイノリティリポートのような世界
ユビキタスと聞いて思い浮かぶのはマイノリティリポートのような世界。
犯罪を予知し、事件が起こる直前に防止するシステムが確立した時代。
あの世界では場所を越え、さらに時間をも越えたネットワークで繋がっており極度の管理社会が築かれている。
ただし最終的な判断は人間が行うという点において、必ずしもネットワーク(ユビキタス)依存に陥っていないところに救いを感じる。
もっと明るいテーマのユビキタス映画は出てこないものか。
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情報通信文化論:課題8 ユビキタスとは何か?へのエントリー
エアコン直下
14:47現在、SFCメディアセンター1F鴨池側の窓際に陣取っています。
暑いので涼しいところを選んだのですが、風を直に浴びてしまい肌寒いです。
友達と一緒に試みているのですが、隣でブツブツ文句を言ってますね。
追記--
blogging day 6.29を終えて一週間が経ちましたが、このあたりであの日の取り組みについて整理しておきます。
従来の遠隔授業やアーカイブされた授業コンテンツを鑑賞するのとは違って、今回のトライアルは授業サイトに次々と課題が配信され、決められた時間内に答えなくてはならないというものでした。
各々はネットに接続出来れば好きな場所でよいということだったので、僕は大学のメディアセンターで友達と臨むことにし、授業開始時刻と同時に課題が発表されたので早速取り掛かることにしました。
30分間隔で投げかけられる質問に、素早くかつ内容の濃い返答をするには高い能力が必要です。いつもの課題なら期日までにネットを利用するなどして案を練ることが出来ますが今回は勝手が違う。ネットという環境がありながらも、情報を十分に整理する余裕がなくほぼ即答を迫られたのです。ユビキタスとは何かという課題が出たとき、ユビキタスという言葉を知らなかった人がいたので、まずネットでユビキタスを調べてみたと言います。意味を知ることから始めると、30分間では深く検討することができません。ここでは明らかに知識の差が現れてきます。つまりネットで検索して調べることが可能な環境にいるけれども、事前の知識を持っていなければ処理が難しいという状況が生まれているのです。この状況は筆記試験とレポートの中間にあるのではないでしょうか。コンピュータ持ち込み可での筆記試験はほとんどないでしょうが、持ち込み可でも資料を読んでいては制限時間がきてしまうことになります。検索のリテラシーが高ければ乗り越えられる問題かもしれませんが、前提知識のアドバンテージが確実に働いてくるのです。
近い将来、このような試験形式で行われることがあるかもしれません。そうすると前提知識の有無、検索リテラシーの有無の関係で4つの事象に分けられ、前提知識と検索リテラシーのいずれかがあれば何とか課題を解くことができる一方、双方ともに欠如している場合は解くことができない状況が生まれそうですね。
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情報通信文化論:課題7 あなたの今いる場所はどこですか?へのエントリー
インターネット=空気
2004年06月19日 19:43 | com: 0 | tb: 0
インターネットは空気のような存在である。
情報通信文化論:課題6 インターネットとは何か?に対する考え
今回の課題は他の人の意見を参考にして考え直すというもので、120件ものエントリーを見渡してみた。
そこで最も影響を受けたのが次のエントリーである。
そして意見を付け加えたい。
ame-log:インターネット=酸素よりジョセフ・ナイの言葉を借りて、もはやインターネットは酸素のようなものになったという記述に興味を持った。
米国の国際政治であるジョセフ・ナイの言葉に「Security is like Oxygen(安全保障は酸素みたいなものだ)」というものがある。~
~インターネットはごく少数の人ではなく、幅広い人々に使われており、酸素みたいなものになってきたからである。
以前インターネットと言えばオタクの象徴と考えられていたが、私たちはその利益を当然のように享受して生活するようになっており、もはやインターネットは限られた者のためにあるのではなく、普通の人々が意識することなく利用する時代になりつつある。
ただ、僕は酸素とは言わず空気であると言いたい。
なぜならインターネットには酸素のように人間が活動する上で直接的に必要なものだけでなく、窒素や二酸化炭素など人間以外に必要なものも含まれているからである。
例えば、植物は光合成を行うことによって二酸化炭素を取り込み酸素を吐き出しており、酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出す人間とはお互いに補完し合う存在である。
つまりインターネットのもつ双方向性は空気のように対象と対象を結ぶ触媒のような働きをしている。
また
すがメモ/SUGAMEMO:息ができねえじゃないか!よりというように、インターネットはコンピュータにとっても必要なものであることが、インターネット=空気としたことを強めてくれている。
インターネットは既に人間にだけではなく、コンピューターにとっても必要不可欠なものになってきているからだ。
デジタル画像は現代にマッチしたメディア
2004年06月14日 10:42 | com: 0 | tb: 0
デジタル画像によって私たちは画像をより多く扱うようになった。
情報通信文化論:課題5 デジタル画像とは何か?に対する考え
私たちはデジタル画像を思い浮かべるとき、デジタルカメラやケータイカメラ、PC上の画像などを考えるだろう。
デジタル画像は容量を持つが容積を持っていない。
この点において人々はデジタル画像を好み、大量に保有するようになった。
カメラの変遷を辿っていくと、技術の進歩に伴って、機器の低価格化や小型化、操作性の向上によって個人メディアとしての地位を確立していったように思う。
マスメディアに限られていた広範な情報発信をインターネットによって個人も発信可能になったように、カメラ、そしてデジタル画像を扱えるようになったことで、より個人が力を持つような時代となっている。
また、通常ならば撮らなかったような無駄なものも撮影することが多くなったので、より多様な価値観を反映できるシステムが登場している。
そしてデジタル画像から想定される「便利・手軽・安価・大量消費」などのキーワードは、
「早い・安い・うまい」をウリにしている牛丼チェーンが流行っているように、現代にマッチしたものであるといえそうだ。
参考--
Aqua Villa:なんか信用できないな…より写真と画像という概念について再認識させられた。デジタル画像とは何か?
一言で言えば、「手軽だけど信用できない画像」
写真じゃないですよ。あくまで画像なんです。
確かに写真とは真実を写すという意味で付けられた言葉であり、デジタル画像は編集を簡単に行うことが可能という意味で信憑性が薄いものであることは拭いきれない事実であろう。
ただ、僕自身はデジタル画像を疑いの眼で見る作業はさほど行っていない。
JTB:課題5 デジタル画像とは何か?「先天的価値が重要」よりアナログによる偶然性の価値を後天的価値、デジタルによる意図的な価値を先天的価値とする視点。考えを画像というジャンル全体に広げてみると、アナログ画像では完全に理想に合致した画像を作成することは難しく、妥協した生成物に偶然の価値を見出すことが多い。つまり後天的価値があるといえる。これに対し、デジタル画像では完全に理想と一致した画像に仕上がるまで何度でも改造を施す工程がとられる。理想と違うものには価値を見出せない先天的価値であるといえる。
この観点からも現代の社会事情が浮き彫りにされているように感じる。
インターネットは脳を繋げる空間
2004年05月31日 02:21 | com: 0 | tb: 0
インターネットは脳内活動を現実界とは別の場所に置き、個人個人の脳を繋げる空間である。
それによって、多くの情報にアクセスすることができるし、逆に自らの考えを公表することもできる。
現在様々な情報がインターネット上には蓄積されているが、今後もその情報量は増え続けていくだろう。インターネット上には人間が考え出した知識が蓄えられており、それは人間の脳を飛び越えた空間に別の脳を作り出しているようなものである。そしてネットワークを介して脳と脳が繋がっていくのだ。
情報通信文化論:課題4 インターネットとは何か?
ケータイという名の麻薬
2004年05月19日 14:45 | com: 2 | tb: 0
ケータイは麻薬である。
使い道によって、その効能は様々だ。
ケータイには依存症がある。
いつでもどこでも友達と繋がっているという安心感があり、もはや手放すことは考えられない。
家を出掛けるときに忘れてはいけないものベスト3に財布・鍵・ケータイが挙げられており、ケータイを忘れた日には一日中落ち着かないと感じる人が多いのは事実である。
また、電波の入らない場所にいることで不安になってしまったり、メールの問い合わせを何度も何度もしてしまうなど、余計な心配事をするようになった。
しかし、うまく付き合っていけばこれほど便利なものはない。
以前、海で友達がクラゲに刺されて早く病院に連れて行かなければならなかったことがある。
その場所はオフロードカーでなければ到達出来ず、私たちが乗ってきた車までは徒歩20分もかかるようなところであった。
そのときケータイがなければ手当てが遅れ友達の状況はさらに悪化していただろう。
そのようなことを考えたとき、ケータイのいつでもどこでもは非常に頼もしく感じるのだ。
ケータイを扱うのは結局は人間であるので、うまくコントロールしていく必要がある。
ケータイは麻薬と同じように2つの側面を持っていると言える。
情報通信文化論 課題2:ケータイとは何か?
糸井重里氏講演
大学の授業「情報通信文化論」で糸井重里さんをゲストに講演が開催された。
「何回もSFCに来ているけれど、オシャレじゃなくなったね」という始まり方で、まず笑いを誘った。
僕はスタイリストの伊賀大介さんが好きで、ほぼ日刊イトイ新聞の岡本太郎特集で対談をしているのを見て、羨ましいと思いつつ糸井さんのこういう関わり方っていいなと思っていた。
うまい言い方が見つからないが、おもしろいことをやっているなと。
本人は無駄なことをやっていると言うけれど、けっして無駄ではなくて、言い換えれば真面目にバカをやるような感覚に似ていると思う。
純粋に興味のあることを突き詰めていくことが重要で、それが一般的にみて社会に意義のあることの必要性はないんだということをおっしゃっていた。
生きていると、誰かから自分がやっていることの意味を問われることがあるけれど、それが社会的な意義がなかったり理由を答えられなかったりすると認められないことがある。
そこで卑屈になってしまうことがあるけれど、「理由なんてなくていい。ただ好きだから」と胸を張っていればいいんじゃないか。こういう言葉で救われる人ってたくさんいるのではと思う。
終盤で糸井さんがモチベーションについて関心を払っていた。
そこでこの人も気になっていることなのかと注目した。
モチベーションに関していうと、まさに個人の活動の源になるものなのだけど、僕はその理由について考えようとしている。
そこで真剣に考えてみるわけだけど、モチベーションに対し本当に理由が必要なのかという疑問が浮かんできて、なぜを繰り返しても結局は終わりがないことに気づく。
だから究極的には理由があるからではなくて、好きで興味があるからこその行動なのだと結論つけられる。
それが100%正しいわけではないけれど、今のところ納得できる処理の仕方であることは間違いないのだろう。
複雑なメディア:メッセンジャー
2004年05月13日 04:47 | com: 2 | tb: 0
IMはe-mailやケータイとは性質の異なったメディアである。
そして、使う者によっても捉え方に相違のあるものである。
僕はIMの存在を大学に入学してから知った。
当時はICQもやるしMSNメッセンジャーもやる二刀流がいたが、ちょうどICQからMSNメッセンジャーへと移行するような時期であったと感じる。
確かにIMのツールは様々あるが、MSNメッセンジャーが周りでは一番多い。
表示名については利用方法が多様になってきている。
一般には名前をそのまま載せるか、もしくは名前が分かる程度でアレンジをする。
ただ、複雑なアレンジを加えたり皆に対してメッセージを発信するような人は非常にIMを使い慣れていると断定できる。よってSFCのような環境に身を置けば、相対的に変わった使い方をする人数が多くなるといえる。
そして、IMの使い分けについて。
僕の場合は暇で話し相手を探したいから起動するわけではなく、一種の礼儀として起動することが多い。
つまり、もしかして誰か自分に話しかけたい人がいるかもしれないから起動するということで、礼儀的にいつでもメッセージを受け取ることはできるという状態を作り上げておくことが大切なのである。
また、IMを長く使っていると分かるかもしれないが、IMに慣れた人ほど無駄話しをしなくなる。
初心者は兎角嬉しくて話しかけてしまう傾向があるが、ベテランはそれなりの風格を備えるようになるのだ。
ベテランはIMの酸いも甘いも知っている。
チャットをしていて困ることは、予想以上に話が延びてしまうことと、話の終わり方ではなかろうか。
ちょっと訊きたいことがあり、すぐに会話を終えたいと思うことがあっても切り方には配慮しなければならない。用件のみで終えてしまうと冷たい印象を与えてしまうことがあり、一種の罪悪感と格闘を余儀なくされることがある。また、目上などと会話するときはより一層の配慮が必要で、必ず最後の会話は自分がしなければならないという心理が働く。これはケータイメールでも取り上げられたトピック。ただ通常のコミュニケーションでも同じことは起こりうるのだろうが。
まあ、IMはうまく使い分けをしていくべきメディアであり、今後も目を離せないところではある。
cafe blog:パーソナルメディア
2004年04月30日 17:44 | com: 0 | tb: 0
パーソナルメディアということで、ケータイや自分専用のPCなどはパーソナルな存在になりつつあるのかもしれない。
しかし、ケータイを使っていても結局はキャリアが設置したネットワークを利用するわけで、完全なパーソナルとは程遠い。
ケータイ自身が基地局や交換局の役割を務め、個々に通信できるような時代がやってくるのだろうか。
ユビキタスネットワークが敷かれることによって、諸所の問題はあるだろうが生活には大きな変化が訪れる。
一度手にしたらもう手放せない(ケータイなど)ように、人間はどれほどまで便利さを追求していくのだろう。
身の回りには、そこまでしなくてもよいと思えることがたくさん存在している。
「安心・安全・健康」としているのも、きっとわかりやすさを重視しているのだろう。
単純に「便利」という言葉を付け足してもいいような気がする。
tb--
cafe blog:パーソナルメディア
家族の距離が近くなった
僕がケータイを手にしたのは高校2年の春。
すでに家族では兄が所持していたのだが、僕が契約すると同時に母親も契約することになった。
当時はケータイのE-mail機能は主流ではなく、キャリア間のショートメールが全盛だったので、それぞれのキャリアである意味派閥のようなものが登場した。
そこでコミュニティの違いや家族プランなどの台頭でキャリアの派閥は顕著になってきたが、
ドコモのi-modeを筆頭にネットワークに繋がる端末が増え、キャリアの違いはそれほど気にならなくなってきた。
そういった流れの中で、
メールや通話でコミュニケーションのシーンが増え、家族の距離が近くなったと思う。
兄、僕、母、父、祖母へと家族の中でも徐々にケータイが浸透し、
始めは通話しかできなかった父や祖母が、
世間で流行しているメールを使ってみたいと興味を持ち始めた。
そこで新たなコミュニケーションの機会が生まれ、子どもと大人間でのやり取りが促進された。
家族間の会話が減少していて、それに準ずる問題が浮き彫りにもなっているが、
僕としては大学のために上京してきている中でも家族とのコミュニケーションをとれるツールとして重宝している。
ケータイによって家族の距離が近くなったと感じている。
研究会発表
2004年01月31日 17:26 | com: 0 | tb: 0
今日の9時半から継続中である。
半日弱の時間、いろいろな人の発表を聞くことは多様な価値観を得るために必要なのだろうが、とてもじゃないが徹夜明けの身には厳しすぎる。
人間が集中できる時間ってどれくらいだったか。今回の形式を改善して、もっと有意義に時間を過ごすことはできないだろうか。
単純に発表を分割して時間を短くした方がいいのか。来期やる場合、もう一度再考したほうがよさそうだ。やっぱりじっとし続けられない性質のようなので。
赤ちゃんが笑わない
2003年12月19日 13:56 | com: 0 | tb: 0
大学のパーソナリティ発達論という講義で乳幼児の発達について勉強しています。
乳幼児期に形成される他者との関係が、その子の今後に与える影響はどのようなものかを探っているのですが、今回のテーマは児童虐待です。
そこで、気になった内容ですが、両親(この時代でも特に母親)との関係が上手く築けないと、赤ちゃんの情緒機能に障害が発生して赤ちゃんが笑わないということが起こるということです。しかも児童虐待は近年急激に増加していて、家庭という閉じられた環境の中で進行しているため、見つかりにくいという報告がされています。
それと同時に、子育てに対して不安を抱いている母親も多く、その原因として家庭の核家族化が考えられます。世代間の連続した関係がないと、子供が生まれたときにどう接していいのか分からないのでしょう。
そのようなことを考えると、僕は大学のため東京に出てきて両親との暮らしから離れてしまったわけですが、将来家庭を構えるときに自分は大丈夫かと考えてしまいます。特に東京で働くということは、仕事一辺倒になりがちで、家族に費やす時間が少なくなってしまうという危険性があります。そのような生活でいいのでしょうか。就活を始めたのですが、その辺りも考えていかなければならないと感じています。
企業と法
2003年10月23日 20:16 | com: 0 | tb: 0
商法を扱う授業なのだが、授業の始めに先生の雑談。
ドラマにはウソが一杯。
ドラマ「グッドラック」を例に挙げると、
キムタクが2つの航空機を運転してるけど、同じ期間に別の機種を運転することはなく、さらに言えば免許が違うから運転できないとか。
柴崎コウは滑走路と工場で整備をしていたが、実際は部署が違うからありえないとか。
あと、スチュワーデスはたくさんいるから同じ人と何回も搭乗することはないはずなのに、いつも黒木瞳がいるとか。
どうも自分の専門がドラマ化されると、詳しい人はドラマの穴を探すほうに一生懸命になるらしい。あれはおかしい、あんなはずはない、みたいな。
知らない人は純粋にすごいなーなんて思っちゃうんだけどもねー。
会計
2003年10月11日 02:50 | com: 0 | tb: 0
授業を受けての感想。
いや、会計って謎解きみたいでおもしろいんだけど、仕事には無理だなーと。
でも会計士ってお金がもらえて、暇な時期もあるらしく、なかなか人気のある職業なんだよね。
「会計」は世界共通語だから強いとか。いや、スゴイ。
